今回紹介するのは、兵庫県朝来市生野町にある「生野銀山」です。
戦国時代から近代にかけてこの地に開かれていた、日本でも有数の「銀山」となります。
「生野銀山」は、平安時代初期となる807年に開坑と伝えられているのですが、実際のところ正確な詳細は不明とはなるのですが、1200年余りの歴史を持つと言われています。
「織田信長公」をはじめ「豊臣秀吉公」や「徳川家康公」の直轄を経て、明治政府が初めて日本の鉱業となる鉱山や、製鉱所の近代化を確立するための直轄鉱山となりました。
「生野銀山」は、その名のとおり「銀」を中心に採掘され、戦国時代より時の権力者は直轄地として、現在の新潟県佐渡市(越後)にある「佐渡金山」や、島根県大田市(石見)にある「石見銀山」と共に、重要な財政の基盤を担ってきました。
明治22年(1889年)に、宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896年)に、三菱合資会社に払下げられ、国内有数の大鉱山となりました。
昭和48年(1973年)の3月22日に、資源減少による鉱石の品質の悪化や、坑道自体が長くなったことで採掘コストが増加したこと、さらに地下深部の坑道を掘削中に岩盤の一部が突然「破裂・突出」する現象「山ハネ」により「採掘が危険!」となったことから閉山することとなり、1200年と言う長い歴史に幕を閉じたと言います。
翌年の1974年に「史跡・生野銀山」という名称で「(株)シルバー生野」が、テーマパークとして開業し、のみの跡も生々しい「坑道巡り」を楽しめるほか、鉱山資料館では貴重な鉱物もたくさん展示されています。
2007年に「近代化産業遺産」及び「日本の地質百選」に選定されています。
そんな、長い歴史を持つ「生野銀山」の紹介となります。
準備が整いましたら「生野銀山」の、散策スタートです!
生野銀山【アクセス・駐車場】見どころ満載です!
今回は、兵庫県朝来市生野町にある「生野銀山」に向けて車を走らせています。
暑い夏が終わりを告げると、次第に肌寒さを感じ始め、各地で緑鮮やかだった「青もみじ」が、徐々に紅く色付きはじめてくると「今年はどこの紅葉を楽しもうか?」と、自然と心が弾んできます。
しかし、多くの方で混み合う名所は「ちょっと、苦手!」と言うあなたに、今回紹介する「史跡・生野銀山」は、お勧めのスポットとなります。
「生野銀山」は「(株)シルバー生野」が、1974年より開業しているテーマパークとなります。
標高709.66メートルの「金香瀬山(かながせやま)」を背景に従えた「生野銀山」は、緑豊かな風景が魅力のひとつとなります。
「紅葉の名所!」と言う訳では無いので、それほど沢山の方が訪れることも無いので、1日かけてメインとなる坑道の散策を楽しみながら「紅葉」の観賞も楽しめるかと思います。
「生野銀山」を訪れるにあたっての「アクセス」と「駐車場」に関して、簡単に紹介しておきます。
生野銀山へはマイカーの利用がお勧め!
「生野銀山」には「無料大型駐車場」がありますので「マイカー」を利用して行くのが、基本的にはお勧めとなります。
尚「公共交通機関」を利用しても行けますので、簡単に紹介しておきます。
最寄り駅となるのは「JR播但線」の「生野駅」となりますが、そこから「神姫グリーンバス」に乗車して「生野銀山口」のバス停留所で下車するだけの、簡単な「アクセス」となります。
あとは約600メートルの徒歩となり、10分もあれば行くことができます。
尚「JR播但線」の「生野駅」から徒歩でも行くことは可能ですが、約3.8kmの道のりは、全体的に若干の上りとなるので、50分ぐらいはかかるかと思います。
「神姫グリーンバス」の本数は意外と少なく「平日」には9本ぐらいありますが「土・日・祝日」に関しては、4本ぐらいしか出てませんのでお気を付けください!
続いて「マイカー」を利用の場合では「播但連絡道路」を利用することになり「和田山方面」から走ってきた場合には「生野ランプ」で降ります。
また「姫路方面」からの場合には「生野北第一ランプ」を降りることになりますが、いずれにしても「国道312号線」から「国道429号線」を経由して「生野銀山」の駐車場に向かうことになります。
いずれからも約5km前後となり、10分もあれは到着できます。
「生野銀山」に用意されている「駐車場」は「無料」となり、乗用車でしたら210台収容可能な大型駐車場ですので、よほどのことが無い限り、満車になることは無いと思われます。
以上が「生野銀山」を訪れるための「アクセス」と「駐車場」の紹介となります。
生野銀山の見どころのひとつ「菊の門柱」
今回、管理人はマイカーを利用して訪れたのですが、朝一番の8時30分の到着となり、開園時刻の9時まであいだに周辺の散策をしました。
「生野銀山」の入口に見どころが集まるのですが、その中のひとつが「菊の門柱」となります。
明治に入り、長い幕府の天領時代が終わりを告げ、政府の直轄鉱山となった「生野銀山」は、近代化が急速に進みました。
左右に設けられた「菊の紋」の入った門柱は、明治9年(1876年)に、生野製鋼所の正門として設置されたのですが、当時の責任者としてフランスから招かれて来た「ジャン・フランソア・コアニェ氏」が、工場の正門として築造したもので、昭和52年に現在の位置に移設したものです。
我が国において、法令上明確な国章は定められていませんが「菊の紋」と言えば、事実上では日本の国章となり、鎌倉時代には「後鳥羽上皇」がことのほか「菊」を好んで、自らの印として愛用しました。
その後「後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇」などが、自らの印として継承したことで、伝統的にも「天皇の紋章」として使用するのが当たり前となり、今日でも皇室が事実上の「家紋」として使用しています。
そのため「十六八重表菊」が、慣例として国章に準じた扱いを受けています。
そんな「菊の紋」が付いた門柱の横にも見どころがあるのですが、これまた「ジャン・フランソア・コアニェ氏」が建造したと言う「赤煉瓦(あかれんが)建物」の残骸があります。
「ジャン・フランソア・コアニェ氏」が、当時の技術の粋を集めて建造した、最新鋭の工場の選鉱所建家の一部を保存したものとなります。
明治4年~6年頃に建てられ、昭和61年11月に老朽化のため解体撤去されたものですが、主な材料の「赤煉瓦」は、生野の地で作られ、その煉瓦の接着にはしっくいが使われています。
生野銀山で全国的に話題となった1円電車
「菊の門柱」の右手側の広いスペースには、かつてマスコミ等で全国的に紹介されて話題呼んだ電車の展示物が置かれており、見どころのひとつとなるので行ってみることにします。
「錫(すず)の鉱山」"明延(あけのべ)"の「1円電車」として話題を呼んだのですが、昭和4年に、養父郡大屋町にある「明延鉱山」と、朝来郡朝来町の「神子畑選鉱場(みこばたせんこうしょ)」までの6.1kmのあいだに、鉱石輸送のための名神電車として開通しました。
昭和20年になると、この鉱石輸送車に従業員と、その家族の交通の便を図るため、初めて客車が連結される形となったものが、ここに展示されている電車です。
最初の料金は「50銭」で、昭和27年には「1円」に改定され「明延鉱山」が閉山となり、名神電車が廃止となった昭和62年3月までの長期間にわたって「1円」と言う料金を据え置きのままで走り続けたことが有名になりました。
本来は「1円電車」の客車は3輌あったのですが「明延鉱山」の兄弟鉱山であった「生野銀山の地」には「あおば号」を移し、残りの2輌のうち「くろがね号」は「大屋町明延の地」に残り「わかば号」は「朝来町内」に置かれ、それぞれの地で、観光の目玉として、一役買うことになったと言います。
そんな「1円電車」が展示されている奥の広場には、日本の彫刻家「牛尾哲三氏」の彫刻がたくさん並んでおり、見どころのひとつとなっています。
いくつも並べられた不思議な形の彫刻は、1993年に開催された「第15回・現代日本彫刻展」に出展され「京都国立近代美術館賞」に選ばれたものや、1997年に開催された「第17回・現代日本彫刻展」の時の作品「-大地からのおくりもの-林-」ではないかと思われる「メビウスの輪」の彫刻なども置かれています。
大変見ごたえのある彫刻が、多数置かれていますので、お見逃しの無いように・・・
生野銀山の園内の紅葉は見ごたえ十分です
駐車場の周辺にある見どころを散策しているあいだに時間がたち、9時前となりましたので「入場券売り場」に向かいたいと思います。
本日は平日と言うこともあり、現時点では管理人のみの来場となり、その他に止まっている車は職員さんのものと思われます。
坑道へと続いていく入口の門には「生野代官所」と表示してあるのですが、これは観光用に作られたものです。
「奉行所・代官所」と言うのは「織田信長公」や「豊臣秀吉公」および、江戸幕府により置かれ「生野銀山」を管理したのですが、実際の「奉行所・代官所」は、現在の兵庫県朝来市生野町口銀谷の「生野小学校付近」にあったと言います。
雰囲気を楽しむため設置されている「生野代官所」の門をくぐり抜けて中に入ると、坑道へと続く遊歩道はとても綺麗に整備されており、遊歩道を取り囲むように木々が立ち並び、紅葉も綺麗に色付いています。
歩き出してすぐ右手側には、見どころのひとつとなる「生野銀山見石」があります。
この旧抗は、徳川時代の末期に手掘りで掘られた洞窟で、奥の部分や入口付近の岩盤にあけられている無数の穴は「穿岩機(せんがんき)」の試し掘りの跡となります。
洞窟の最奥に鎮座するのは「鉱業守護の神」となる「金山彦命(かなやまひこのみこと)」を祀った山神宮の分社で「太盛山・金香瀬山」の黄銅鉱を「見石(みいし)」としてお供えしています。
洞窟の入口には、当時の作業の様子を再現するようにマネキンが置かれているのですが、このマネキンが異常なほどにリアルで、見ようによっては本物に見えるくらいのクオリティとなります。
超スーパー地下アイドル誕生「GINZAN BOYZ」
マネキンの話になりましたので、先に紹介しておきますが「生野銀山」には、2017年7月26日(水)の11時開始をもって「超スーパー地下アイドル」が誕生となり、その名を「GINZAN BOYZ(ギンザンボーイズ)」と言い、人気沸騰中の見どころのひとつとなりました。
実際に管理人が生野銀山を訪れた日には「ギンザンボーイズ」は結成されていなかったのですが、ニュース番組で取り上げられているのを見た時に、特に驚くことは無く「なるほどね~!そうきたか!」と思わず共感しました。
何故なら訪れた時に、何十体ものマネキンが随所で作業をしているのですが、どのマネキンも「パッ!」と出くわすと、一瞬「ゾクッ!」とするほどのできばえで、二度見、三度見してしまうほどリアルで恐ろしいものでした。
クオリティーの高さが半端ないのと、中にはかなりの「イケメン」が混じっているのが特徴的で「実は本物の人間も混じっているのでは?」と、思うほどです!
マネキン離れしたマネキン達には、すでに名前が付けられており、写真の左上は「茂野屯衛門(ものとんえもん)」と言い、装いも性格もモノトーンで、現場の声を聴き柔軟に対応する姿勢が、労働者たちからも好評価と言うことです!
本人は「もっと白黒はっきりつけたい!」と悩んでいるのだが「それには彼は優しすぎる!」などと、性格のエピソードまで付けられています。
「茂野屯衛門(ものとんえもん)」の横の写真は「銀ちぇる」と言う10代の子供で、左下の写真のマネキンは「生野銀山一の情報通」の「よさぶろう」で、最後は典型的なエリート公務員で「幕府の役人」の「左門(さもん)」となり、個性豊かなメンバーたちが、実に60マネキンぐらい「生野銀山」で働いているそうです。
1973年に「生野銀山」が閉山して以降、彼らの熱き魂は時を止めたままとなり、深さ880メートルにも達する坑道の中で、長いあいだ眠り続けてきたと言います。
そして2017年にして、彼らの鎚音(つちおと)が、いま再びこだまする・・・!
日本の礎(いしずえ)を地下から支えた熱きアイドル「GINZAN BOYZ(ギンザンボーイズ)」のデビューとなりました。
史跡となった「生野銀山」ですが、ある意味飾り気がなく、堅苦しささえ感じる観光地のイメージが強いため、訪れる人は決して多いとは言えず、貴重な資料や数多くのドラマが、人の目に触れず埋もれてしまっています。
そんな悲しい現状を打破するため、鉱山で働いた労働者たちのマネキンの姿に注目して、結成されたと言うことです。
「YouTube」に公開されたデビュー曲となる「ギンギラ銀山パラダイス -GGGZPDS-」で、その様子を垣間見ることができますので、気になる方は、是非一度「YouTube」で見てみてください!
そんな「GINZAN BOYZ(ギンザンボーイズ)」の、今後の動向が気になるところです!
生野銀山の見どころ「鉱山資料館・吹屋資料館」
坑道に向けて歩いてると、左右両方に建物があり、左手側の大きな建物は「鉱山資料館」となります。
右手側に建つ小さな建物は「吹屋資料館」となり、いずれも見どころのひとつとなります。
「鉱山資料館」には、江戸時代の鉱石を掘り出す作業を再現した、15分の1の縮尺の模型が設置されています。
江戸時代後期の地下工場で働く人は、実に210人もいたそうで、服装や用具、さらには備品の使い方や作業の様子まで、忠実に再現されたものとなり、蟻の巣状に分かりやすく作られた模型は、見ごたえ十分となります。
807年に開坑し「織田信長」より「豊臣秀吉」さらに「徳川幕府」の時代を経て、明治元年になると政府直轄となりました。
その後「皇室財産」にまでなった「生野銀山」の、長きにわたる歴史をパネル展示などで紹介されています。
右手側に建つ建物は「吹屋資料館」となり、こちらもまた見どころの多い施設となります。
昔は「精錬」のことを「吹屋」と言い、精錬作業に従事する人のことを「吹大工」と呼んでいました。
徳川幕府の時代には、幕府に対して献上する上納銀を作るために、丹念かつ辛抱強く精錬を繰り返していた「吹大工」たちのマネキンが並び、その様子を見ることができます。
「吹屋」の作業は、素吹から始まり、真吹⇒南蛮絞⇒荒灰吹⇒上銀吹の、5つの工程に分かれていました。
そんな5つの工程を行なうのが、11体の電動のマネキンとなり、ボタンを押すことで、各工程ごとの作業の模様をリアルに見ることができ、上納銀ができるまでの流れが一目でわかります。
と言うような、見ごたえのある資料館が2ヶ所あり、無料で見ることができます。
生野銀山の見どころのひとつ「観音岩」
資料館を出てすぐ左手側の岩肌に、見どころのひとつで「観音様の横顔が浮かび上がってきた!」と言われる断崖があります。
長い年月を経て、自然の力でできあがったものらしく「落石防止のために張った金網が幸いして浮き出てきたもの!」と、推測されています。
見る場所や角度が重要となるのですが、一番わかりやすいのは、水車のある池の前に置かれた「コイの餌の販売機前!」から見上げてみてください!
人工的なものでは無く、自然に浮かび上がったと言うのが見どころとなり、言われてみれば「なるほど~」となりますが、言われなければ気付くことすら難しい感じです。
上記の写真では少し分かりずらいかもしれませんが、実際に現場で見ると、もう少し「観音さま」に見えるようにも思います。
「大自然!」と言う底知れぬパワーは、時に思いもよらぬものを作り出すもので、そのひとつとして観賞してください!
生野銀山の最大の見どころとなる坑道!
「生野代官所」の門をくぐり抜けたあと、既に約1時間が経つのですが、距離で言うと100メートル足らず進んだだけとなります。
そう言った点から「生野銀山には見どころが多い!」と言うことになりますが、いよいよ「観光坑道」に入っていきたいと思います。
その前に「金香瀬坑道」への入口の右手側の断崖絶壁に、立派な「不動滝」があるのが目に入ります。
落差で言うと15メートルほどはあろう「不動滝」は、水量こそ少ないのですが、岩肌を伝うように流れ落ちてくる姿は、インパクトとしては十分に存在感があります。
また「不動滝」の左手側の岩肌には、小さな「祠(ほこら)」が設けられており、中には小さな「滝不動明王の像」が、お祀りされているのが見えます。
この「滝不動尊」は「生野銀山」の開山となった「織田信長・豊臣時代」から山神社と共に「坑内安全」と「鉱業の繁栄」を祈念してきたと言います。
そんな「不動滝」を観賞したあと「金香瀬坑道入口」より、坑道へと入って行くのですが、坑道への入口は「ジャン・フランソア・コアニェ」による、フランス式の石組が施されています。
アーチ型の抗口は開坑当時の面影が感じられると言うのですが、とても味わい深い作りとなっています。
一歩中に足を踏み入れると空気感が変わり、少し冷たさを感じます。
生野銀山の見どころ「江戸時代採掘ゾーン」
「生野銀山」の観光坑道内は、1年を通して約13度と気温が一定しており、真夏などに訪れると程よい涼を感じ、快適な空間となります。
観光坑道は全長が約1kmあり、全体を回るには最低でも40分ぐらいは必要かと思います。
観光坑道内には「江戸時代採掘ゾーン」と「近代採掘ゾーン」があるのですが「金香瀬坑道入口」より入ったら、まずは「江戸時代採掘ゾーン」から始まります。
しばらくの間は、機械などを一切使わずに採掘している姿のリアルマネキンを見ながら、当時の様子を想像していきます。
江戸時代の坑道は、坑内作業者ひとりがやっと通れるほどのもので、岩肌には今もノミの跡が重々しく残っています。
機械が無い時代ですので、狭い坑道や、行き止まりの坑道では、風通しが悪くなるため、人工的に風を送り込む手子(てご)、すなわち「手助けをする者!」がおり、風を送り込む唐箕(とうみ)を回し続けています。
堀大工(ほりだいく)は、ノミ1本で命がけで鉱脈を探りあてながら掘り進みます。
狸堀(たぬきぼり)と言い、技術の未発達な時代の小規模稼行(かこう)の場合、地表の露頭から鉱石を追って無計画に掘り進む採鉱法で、タヌキの巣穴に似た不規則な採掘の跡が作られるところからの呼名となります。
そんな「ノミ1本」と「金槌(かなづち)」のみで、掘り進めて行く姿を見ることができるのは「金香瀬坑道入口」より入って直進していき、右に曲がる分岐点があるのですが、まっすぐ進めば、それ以降は「近代採掘ゾーン」となり、右に進めば「江戸時代採掘ゾーン」の続きとなります。
「金香瀬坑道出口」までの、約300メートルの採掘跡を楽しむことができます。
生野銀山の見どころ「近代採掘ゾーン」
観光坑道には、一様観賞順路が設けられており、本来でしたら「分岐点」で右に曲がらず、そのまま真っすぐ「近代採掘ゾーン」に入って行き、最奥まで進みます。
その後「分岐点」まで戻って、あとは出口に向かって「江戸時代採掘ゾーン」を楽しむのが、本来の観賞ルートとなりますが、どのように歩こうが特に問題はありません!
管理人のように、まずは「江戸時代採掘ゾーン」を楽しんで「金香瀬坑道出口」を出て、もう一度10メートルぐらい先にある「金香瀬坑道入口」から入って、今度は最奥に続く「近代採掘ゾーン」に向かうルートを散策する・・・
散策の仕方は自由となりますので、お好きなように散策してください!
と言うことで、次は「近代採掘ゾーン」に向かいます。
「近代採掘ゾーン」に入ると、まず最初は「酒岳堂、生野銀山熟成室」と称して、お酒の貯蔵庫となり、ここで熟成させたお酒「岳」に関しては、売店にて販売されています。
「限定品」となるため、訪れた時に在庫があるかどうかは分かりませんが、ご興味のある方は是非一度、売店にてお買い求めください!
さらに奥へと歩き進めて行くと、採掘方法がかなり近代化していき、機械を使っての採掘に変わっていきます。
服装も作業着に変わり、ヘルメットやヘッドライトなども装備されています。
「穿岩機(せんがんき)」であけられた穴にダイナマイトが詰められて、岩盤を崩す様子も見ることができます。
鉱脈と言うのは、ちょうど1枚の板を立てたような状況で地下から噴出しており、その長さは1km以上にも達するものがあると言います。
そんな鉱脈を破砕し、鉱石を井戸に落としていくと「シュリンケージ」と言う空洞ができます。
柵が設けられていますが、約30メートルぐらいの深さのものを覗き見ることができます。
「生野銀山」の観光坑道は、約1kmとなるのですが、未公開坑道まで含めますと、総延長350Kmとなり、地下880mの深さまで達しています。
これは、すなわち東海道新幹線で言うと「新大阪駅」から「静岡駅」までの距離に匹敵することになります。
巻揚機が設置されているのですが、約900メートルの深さから200馬力で、一度に2トンの鉱石を運び出すことができるものとなります。
あと坑道内の見どころは、三本からなる滝があったり「不動明王」をお祀りした、小さな社が鎮座していたりと「近代採掘ゾーン」も見ごたえは十分です。
「江戸時代採掘ゾーン」の手掘りから「近代採掘ゾーン」の機械掘りへの変わりようを、同時に観賞できる観光坑道となっており、時の流れを肌で感じることができるようになっています。
以上で、観光坑道の散策は終了となりますが、最後に向かうのは「金香瀬旧抗露頭群跡」となりますので「露天堀跡入口」へと向かいます。
生野銀山の見どころ「金香瀬旧抗露頭群跡」
観光坑道の散策も終わり、残すところ「金香瀬旧抗露頭群跡」だけとなりましたが「露天堀跡入口」へは「金香瀬坑道入口」の横にある階段を歩き進めて行きます。
階段は、整備の行き届いたなだらかなものとなりますが、階段を登りきったところからは山道へと変わります。
少し歩き進めて行くと、簡単な木の門が設けられているのですが「生野代官金香瀬番所」と書かれています。
「露頭」とは、地中から噴出した鉱脈が地表に現れた部分のことで、昔はこの「露頭」を探し当てたあとに、地中へと掘り進んだと言います。
「金香瀬旧抗露頭群跡」の見学ができるのは、約600メートル先までとなり、山道を歩き進めて行くと「紅葉」が一部綺麗に色付いているものの、全体的には落葉しているようにも思います。
道の両側には、切り立った岩盤が露出しており、岩の表面はどれも熱水変質を受けて赤褐色をしています。
左手側に見えてくる大きな割れ目は「徳川時代」の採掘跡で「慶寿の堀切」と呼ばれる「露天掘り跡」となります。
道をはさんだ反対側にも同じような採掘跡があって、この方向に鉱脈が伸びていたことが見て分かります。
さらに、生野町指定の天然記念物となる「断層と鉱脈」が見られ、わが国でも屈指の大きさを誇る「粘土断層」も見られます。
江戸時代の抗夫の平均寿命は、20歳くらいと言うことですが、それは既に10歳には坑内に入って採掘作業に就き始め、20歳までにはほとんどの抗夫は、坑内の塵埃で肺を病んで命を落としていたと言います。
そう言ったことで、ベテランと呼ばれる抗夫の多くは、これからの未来ある若者だったと言う訳です。
「織田信長公」を始めとして「豊臣秀吉公」や「徳川家康公」も、この「生野銀山」を直轄として、財政基盤を整えたと言います。
「奈良公園」にある「東大寺」の「奈良の大仏さん」の建造時は、ここから採掘した銅を献上し「大阪城」の築城にも、財政的に大きな貢献を果たしたと言います。
「生野銀山」では、今でも銀を採掘することはできるのですが、資源減少による鉱石の品質の悪化や、坑道延長が長くなったことで、採掘コストが増加したことや、地下深部の坑道を掘削中に、岩盤の一部が突然「破裂・突出」する現象となる「山ハネ」などにより、採掘が危険となったことで閉山し、1200年と言う長い歴史に幕を閉じたと言います。
今回訪れた「生野銀山」は、歴史的な観点から見ると大変重要であり、多くの方が学ぶべき歴史のひとつであると思いますが、観光地としてそれほどの知名度が無いのが残念なところです。
「生野銀山!」と言うだけで、何か重さと難しさを覚え、足を向けることがなかなか決めきれない感じとなりますが、いざ訪れてみると大変見どころの多いスポットとなり、大人から小さなお子様まで楽しめる、素晴らしい観光地であったと思います。
新たな取り組みとして結成された「GINZAN BOYZ(ギンザンボーイズ)」も、今後の動向が気になるところですので、ますますの知名度アップを図って、多くの方が訪れるのではないかと思われますので、是非一度、多くの方が押し寄せる前に訪れておくのも良いかと思います。
生野銀山のアクセス及び駐車場情報!
【基本情報】
*基本情報は、できる限り新しい情報を掲載することを心掛けていますが、すべての変化に対応できないのが現状となりますのでご了承ください。
「生野銀山」
- 住所:〒679-3324兵庫県朝来市生野町小野33-5
- 電話:079-679-2010
- 入場料:大人(900円)・中高生(600円)・小学生(400円)
*小学生未満は無料です! - 時間:4月~10月:朝の9時00分~夕方の17時30分(*最終入場は夕方の16時50分まで)
11月:朝の9時00分~夕方の17時00分(*最終入場は夕方の16時20分まで)
12月~2月:朝の9時30分~夕方の16時30分(*最終入場は夕方の15時50分まで)
3月:朝の9時30分~夕方の17時00分(*最終入場は夕方の16時20分まで)
定休日:12月~2月の3ヶ月間のみ毎週火曜日
*火曜日が祝日の場合は翌日になります! - 駐車場:無料「普通車(210台)・大型バス(10台)」
- アクセス:【公共交通機関】 「JR播但線」の「生野駅」から「神姫グリーンバス」に乗車し「生野銀山口」のバス停留所で下車して徒歩10分
【お車】「和田山方面」からの場合「播但連絡道路」の「生野ランプ」を降りて「国道312号線」から「国道429号線」を経由して4.6km(10分)
「姫路方面」からの場合「播但連絡道路」を「生野北第一ランプ」を降りて「国道312号線」から「国道429号線」を経由して4.9km(10分)
最後までお付き合いいただき本当にありがとうございます。
「生野銀山」は、大変見どころが多いスポットとなるのですが、たくさんの方が押し寄せる訳でも無いので、ゆっくりと時間を掛けて見学できるところが良いと思います。
たくさんの方が訪れるように、新たな取り組みとして結成された「GINZAN BOYZ(ギンザンボーイズ)」の動向も気になるところですので、是非一度訪れて、ゆったりとした時間をお過ごしください!
【関連記事】
兵庫県の観光の関する記事はコチラをご覧下さい!
コウノトリの郷公園【アクセス・駐車場】豊岡市が絶滅の危機を救う
エア・フロント・オアシス下河原【夜のライトアップ】駐車場情報
但馬大仏(長楽寺)~見どころ紹介【アクセス・駐車場・御朱印】
諏訪山展望台【アクセス・駐車場】愛の鍵モニュメントで縁結び!
兵庫県立公園あわじ花さじき~咲き乱れる菜の花【アクセス・駐車場】
八木のしだれ梅~淡路島随一の一本梅の名所【アクセス・駐車場】
兵庫県の恋人の聖地に関する記事はコチラをご覧下さい!
兵庫県の体験型施設に関する記事はコチラをご覧下さい!
兵庫県の滝めぐりに関する記事はコチラをご覧下さい!
兵庫県のハイキングに関する記事はコチラをご覧下さい!
大和葛城山~櫛羅の滝ハイキングコースで山頂へ【アクセス・駐車場】
兵庫県の夜景に関する記事はコチラをご覧下さい!
東六甲展望台【アクセス】東六甲随一の夜景【芦有ドライブウェイ】
ビーナスブリッジ【アクセス・駐車場】神戸屈指の夜景スポット!
錨山展望台~夜景【アクセス・駐車場】暗黒の森をナイトハイキング!
市章山展望台~夜景【アクセス・駐車場】穴場スポットへナイトハイキング!
六甲ガーデンテラス【アクセス・駐車場】六甲山系随一の夜景スポット!